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その時好きなものや思ったことなどをゆるく語ってます(ゲームとアニメ、ドラマ、他) ※はじめに、をご一読ください

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アサシンクリードリベレーション、最強のアサシンだった彼の最後のメモリー
クリアしました、一周ざくっとですが。

そもそも発売当初にすでにクリア済みな作品で、そのときは何とも思わず逆にこの作品は駄作とまで思っていたののですが、昨日EDを迎えて感慨深くなる自分がいました

はじめこのゲームを批評したときは。どこがアサシン?ただの放浪記になってるじゃないか、とか明確な目標がはっきりしないで敵もはっきりしないで熱中できない、RTSがクソツマンネとか言ってました。それらもまあ初めには感じるのですが、このゲームはそれらよりドラマ性を謳っている作品に思えます。そして本当にエツィオのアサシンとしての最後を描いているドラマ
エツィオに相当な思い入れがないと逆に楽しめないでしょう、アルタイルへの挽歌も含め、キャラクターたちへの思いを胸にプレイするとすごくよくできている作品だ
というのも私は年末年始にかけ、アサクリを1からやり直し、ストーリー人間関係をもう一度見直していたんです、そして改めて気づくことも多く、その段階でやったのがよかったのかもしれない。
おそらくリベレからやる人ってあまりいないと思いますが、これからやるとゲーム性しか見えそうになく評価は低めでしょう。

あと今回は、アサクリを2から英語でやったんですよ、これが良かった。
はっきり言ってアサクリ初代は日本語でもいいですが、2以降は英語のが断然いい(というか私の好み)エツィオの声が最後の最後まで違和感あった日本語だったのですが、英語はいい・・これも大きい気がします。すごく哀愁を感じさせる低音がいい、ドラマチックになる、ていうか若い頃は日本語のあの声でもいいのですが晩年の彼は英語版のようなこういう落ち着いた声を持ってる人がよかった(※英語のエツィオはバイオのクリスなどをやっているロジャーさんです)

そして、今作にはソフィアメモリーというのがあるのですが(エツィオがアルタイルの過去を振り返っていく)
これを読み込んだあとにエツィオがひとつひとつ、自分の人生をアルタイルに重ねて呟く文句が私は好きでした。
「24歳という若さで、困難に立ち向かったのか・・仲間を全部敵にして追放されて・・、私には耐えられないことだろう」
これは24歳~26歳あたりでムアリムをなくし、一人で教団に立ち向かう決心を付けたあたりのセリフです。アルタイルには絶望的に仲間に恵まれなかった、もちろんマリアもいたし、思いを賛同してくれる人もいたでしょうけれども、エツィオのように仲間がたくさんでというものはなかった。アルタイルはアッバスの率いる教団から見ればただの異端だった。
そして40代の頃のメモリーで自分の息子を殺され、マリアを目の前で殺され、しかし残った一人の息子とともにマシャフから逃げていくアルタイルを見てのセリフ
「アルタイルの痛みがわからないのは彼のように本当の愛をかたくなにしろうとしない私がいるからだ」
っていう、これ。
これにすごく引っかかる自分がいました。
もともとこのメモリーを読み込んだあと、エツィオは自分とアルタイルの生き様の違いをすごく感じているのですね、そもそもアルタイルという人物は写本の中でしか、そのアサシンに残した功績でしか知らず、彼の人生は知らなかったことも多いのだと思います。しかしこの紋章のメモリーで知ることになる。驚きの連続だったのかとも思いますが、彼はアルタイルの凄さを感じながら自分はそれにも値しないとどこか自虐してるみたいにも見えます。
そもそもエツィオが本当の愛を知らない・・っていうのが意外すぎて、しかも頑なに知ろうとしないというのはそんなに作為的なものなのかと。不思議です。
もしかして本当の愛をしろうとしないエツィオというのは妻をめとらないエツィオということなのか?と初めは思いました。愛した女性は山ほどいたが、そこまではいかなかった。そういえば、本編内でそういう会話もあった。「妻はいないんだよ」と「この絨毯の手触りはあんたの女房より最高だよ」という商人に言っていた。
そしてソフィアを見て、自分の興味をもつことに熱心に取り組む人物にはいつも惹かれる、だが彼女は危険にさらしたくはないので素性は言えない、といってるのも意味深だった。
このソフィアに感じる「自分の興味をもつことに熱心に取り組む人物」というのは、ダヴィンチのことでしょう。ソフィアに向ける視線の優しさには、エツィオがレオナルドに向けた視線の穏やかさに通じるものがあると思います。つまりもしかしてエツィオが本当に愛していたのはレオナルドだったってことなんだろうか?とも思うが・・
そのあと「クリスティーナとのことがあって以来、感じたことのなかった心がソフィアに感じているんだ」とその心境を妹への手紙に語っていて。
そうか、クリスティーナ、か・・と
BHにあるクリスティーナミッションとかやるかぎりエツィオが愛した女性はクリスティーナだった。彼女に会いに行きすでに婚約者がいると知っても、忘れられずに仮面舞踏会の夜に会いに行ったりした。しかしそこで拒絶され、というよりふたりの心は完全にすれ違いうまくいくことはなかった。
それ以来「愛をしないようにしよう」と心に想い続けたのかもしれない。
逆に、アサシンたるもの愛など無用、とも思ったのかも。
最愛の人とともに生き、なくし、それを乗り越えそれを胸に刻み生きたアルタイルと、そう考えれば真逆です。
こうしてみるとアルタイルは情熱的で激情家だな、逆に冷めてるのがエツィオって感じがする。
そんなエツィオの抑えられた愛を求める感情が、ふつふつと泉のように湧いてき、それに幸せがみち、愛していきたいと感じるにいたる。この流れがリベレーションの中で最高でした
それはソフィアのために白いチューリップを積むシーン
ソフィアのために、塔の上に必死に登るシーン
最後の決戦のシーン
そしてソフィアも強くすばらしい女性でした。正体を語らずにいたエツィオを責めることもなく、悪いのはあなたではない、といい最後に一緒にマシャフに来てくれます
ここで最後のソフィアメモリーとしてアルタイルの最期を感じて見つめるエツィオ
りんごの本物にも出会える
しかし「もう私はアサシンとしては生きない、自分の人生を生きるのだ・・そう、してもいいだろう」といって、ブレードを外し、装備を外し、りんごを手にすることはなく、その手にはソフィアに伸ばされる
ここも「一生涯をりんごのために生き、教団のために、アサシンとして生きたアルタイル」と「運命に生かされながら、それに流されてきて、その過程では愛をすることもやめた、だが最後には一人の女性を愛する男になったエツィオ」という対照的なふたりがいる
エツィオは、到底こうはなれないとアルタイルの死を前に思ったのか
この最後のエツィオの選択も、私は胸を打たれました
書庫へ向かう通路に灯される火をエツィオが、火をけすのがアルタイルという描写もすばらしい

愛をしろうとしなかったエツィオといったが、そう思うと殺された家族だったりクリスティーナだったりは全部フィレンチェのころのはなしで、彼はアサシンになって本当の愛を知ろうとしなくなったのだろう

リベレにはたくさんの愛と憎しみが描かれている。
このエツィオとソフィアの穏やかな愛もだが、アッバスとアルタイルの確執もすごくいい。
アッバスとアルタイルは、両方とも苦しんだんだろうけどすごくドラマがある アッバスはアルタイルを無二の親友と呼んでいたからこそ裏切られた感が強かったんだろう 愛していたからこその憎しみっていうか。彼は「父は教団を裏切ったのち、自害した」とアルタイルに聞くが、この言い方も少し問題があったのかもしれない、が、自分のアイデンティティが崩壊したのもこの時なのだろう。
思えばアッバスの人生をそこまで狂わせたアルタイルというのもすごい。

今までアサクリには派手さや楽しさをもとめこういった深いドラマを求めていなかったから初回プレイ時は理解できずに楽しくないと思っていたが、じっくり取り組んで描かれているドラマを見ればリベレはいい、本当に良くできている。リベレはアルタイルもだけどエツィオがすごくいい、彼の三部作の中でリベレが一番好きかもしれない。 そろそろ自分の人生を歩んでもいい頃だっていう言葉が重く、そしてその後の彼を知るためにも、いまだ見てなかったOVAを見るときが私にきた


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